親鸞聖人は常々、こんなお言葉を仰っていたそうです。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。
『歎異抄 後序』
阿弥陀様のご苦労は、本願は、他でもない、この私一人のためのものであったかと喜ばれておられるお言葉です。
もしかしたらこのお言葉をパッと聞かれたとき、親鸞聖人はご自分のことだけで、他の人のことはどうでも良いという冷たい方なのかしら?と思われる場合もあるかもしれません。
しかし、このお言葉は、阿弥陀様は私だけ救ってくださる仏さまであって、他の人には関係ない!という冷たい言葉ではありません。「一人がためなりけり」という言葉にこそむしろ、すべての者が救われていくんですよ、という温かみを感じます。
先日図書館で借りた本に子どもの詩を集めた本がありました。いくつも素敵な詩がありました。その中でも特にかわいかった詩が「太陽」という詩です。
太陽
やなぎたかお(3歳)
ねえ ママ
太陽っていくつあるの
ぼくのおうちでしょ
ほいくえんでしょ
おおさきでしょ
かまがやでしょ
まりちゃんのおうちでしょ
道を歩いてても あるしネ
やっぱり
八こは あるんじゃない
何と素敵でしょうか。おそらくたかお君が言った言葉をお母さんが詩にされたんだと思います。
この子に対して、「太陽は1個だよ」というのは無粋です!それよりも「そうだよね、沢山あるよね、今度数えてみよっか」と粋に返したいではないですか。
そして、親鸞聖人の「一人がためなりけり」と、とても通じるものがあると感じるのです。
阿弥陀様はお一人で、一人もらさず全ての者をすくってくださる仏様ですよ。だからあなたも救ってくださるのですよ。。。親鸞聖人が教えてくださったご法義ってそうなんでしょうか。
そうではないように思います。「私も救ってくださる」のではなくて、「私を救ってくださる」仏様なんです。
このたかお君の「太陽」という詩も、まず「ぼくのおうちでしょ」から始まるのです。僕の家を、僕を、暖かく照らしてくれる太陽がある。というのが一番最初です。それがあって、「あっ、ここにも」「あっ、あそこにも」太陽があるんだと気づいていくんですね。
親鸞聖人もまずご自分に向けられた阿弥陀様の思い、願いというものに出あっていかれたお方です。私一人をこそすくうと仰って下さる仏様であると知らされるところに、あっ、あの人にも、あの人の所にも届いていたんだと、広がりをもっていくのではないでしょうか。
一人ももらさずすくうと仰る仏様だから、たまたまその中に私も入っているのではありません。「私もすくってくださる仏様」ではなくて、「私をすくってくださる仏様」であるからこそ、すべての人への救いが広がっています。