心得たと思ふは心得ぬなり。
本願寺第八代宗主蓮如上人の言行録である『蓮如上人御一代記聞書』に
心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。
というお言葉が残っております。
心得た!これはわかったぞ!と思ってしまったらそれは全然わかっていない。
反対にあーまだまだ分からないな、と思っている方が分かっているということですね。
知ってるつもりが豊かさを失う
「知っているつもり、分かっているつもり、できているつもりは豊かさを失う」という言葉を目にしました。本当その通りだなぁと共感。
できている、分かっていると思っていることはそれ以上成長がありません。分かっているつもりになっているものに対しては当たり前になってしまっていて、何も問いがでてきません。
反対に分かっていないと思っていることに対してはどんどん疑問が出てきて、理解が深まり、豊かになっていきます。
子供はちゃんと疑問をもつ。大人は知ってるつもり
子供は疑問に思ったことは全て聞いてきます。自分は全然知らないと思っているからでしょう。そして、知らないことを恥ずかしいともなんとも思ってないからでしょう。何で空は青いの?何で働くの?何で寝るの?何で生まれてくるの?死んだらどうなるの?等々。大人の私は全然答えられません。。。大人は答えもわからないのに、そういった問いは自分の中にしまいこんでいるのでしょうか。
大人になって疑問が起こってこないのは、空が青いのが当たり前になっていて、働くのが当たり前になっていて、知っているつもりになっているからではないでしょうか。そして知らないこと、分からないことが恥ずかしいことだと、どこかで思ってしまっているからです。でも反対です。分かっていると思っている方が恥ずかしいことです。分かったと思った時点で試合終了です!
やればやるほど未熟さに気づく
私は上原ひろみさんのピアノが好きです。上原ひろみさんみたいにピアノが弾きたいといつも思っています。
子供の頃はクラシックピアノを習っていたのですが、社会人になってからはポップスやジャズピアノも習い始めました。そしていつか上原ひろみさんのように弾きたいと思いながら練習するのですが、練習すればするほど、上原さんが遠くなっていくのです。学べば学ぶ程、上原さんのすごさが分かってきて、こりゃ自分がこの境地に達するのは無理だぁとへこむのです。
どの道でもそうだと思いますが、やればやるほど達人のすごさがわかりますね。やればやるほど、生きているうちに上原さんみたいなピアノが弾けるようにはなるのは無理だなぁ思うんですが、やればやるほど上原さんのピアノが身に染みてきます。聞けば聞くほど素敵です。あの息づかい、間、メロディーの美しさ、構成の緩急、どれも心に刺さります。以前は聞こえなかった音が聞こえてきます。へこみながらも、これも豊かになったってことなのかなぁとも思います。
最近はYoutubeとかで、素人のユーチューバーさんがプロの格闘家にスパーリングを申し込んだりしていますが、一発くらいは決めれるんではないか、とか最初は言ってますが、結局ボコボコにされてますね(笑)はたから見たらすごさってわからないんですね。おそらく格闘技をやり始めたら、やればやるほどプロの方のすごさというのが、分かるのでしょう。
最初は簡単にできるだろうと思っていても、どんな道もやればやるほど、達人のすごさが見えてきます。やればやるほど、できてない自分を知らされます。そして、それに近づくためにはどうやって練習していけばいいのか問いが起こってきます。その問いが大切なんですね。どうやったらこんな風に弾けるのだろう、どんな練習を重ねたらいいんだろう、と考えながらやることで、その向こうには新たな世界が広がってくるのでしょう。
藤井聡太棋聖のコメントからも
そういえば、藤井聡太棋聖が17歳11か月で初タイトル獲得後の会見で「探求心」という言葉を掲げながら「将棋は本当に難しいゲームで、まだまだ分からないことばかり。これからも探究心を持って盤上に向かっていきたい」とコメントされましたね。トップにまで上り詰めてもまだ、分からないことばかりと仰るなんて!まだまだすごくなっていく方なんでしょうね。「棋聖!やっぱりわかったと思ったらそこで試合終了なんですね!」
親鸞聖人の歩まれた仏道
親鸞聖人というお方は真剣に仏道を歩めば歩むほど、仏とはほど遠いわが身を知らされ、そして仏のはかりしれないお心にであわれ続けられたお方だったのだと思います。自分は分かった、知っているんだという賢者の立場に身をおかれず、我が身を問い続け、仏とは何かと問い続けられたのだと思います。そこに豊かな世界が広がっています。
心得たと思ふは心得ぬなり。
分かったつもりになってませんか?