あなたは親孝行でしたか?
皆様は先立たれた方を偲ばれる時、十分親孝行ができたな、と思われるでしょうか、それとも親不孝だったな、と思われるでしょうか。もしかしたら親不孝だったと思われる方の方が多いのかもしれません。
ご法事などではよく、「亡くなってからの方が父の存在が私の中で大きくなりました」とか「もっと生きている間に色々教えてもらっておけばよかった」と聞かせていただきますので、後悔なさっている方も少なくないように思います。
しかし、仏教は「親孝行できたと思っている心より、親不幸だったと思っている心の方が親孝行ではないか?」と、問いかけています。
偲ぶとは
親孝行できたと思っている場合、主語は私です。こんなところにも連れていってあげた、介護もしてあげた、と私が何をやってあげたかが中心になっています。
しかし、「偲」ぶという漢字は「人を思う」と書きます。したがって偲ぶということは、私を思うのではなくて、先立たれた方を思うのですね。先立たれた方を主語として、あんな事もしてくれた、こんな事も教えてくれた、こんな笑い話もあったね、と語りあい、聞きあっていく中に、改めてその方とであわせていただく場がご法事などのお仏事ではないでしょうか。
恩徳讃
親鸞聖人は
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし
(『正像末和讃』)
とお示しくださいました。
如来様、先人方のご恩は私が身を粉にしても、骨を砕いても返しきれるものではありませんでした。と味わうことができます。骨を砕け!身を粉にしろ!と仰っているというよりは、どれだけやっても返しきることのできないものであったよろこびをうたっていらっしゃるご和讃だと受け止めています。
返しきることのできない程のご恩にであった者の姿の一つが「親不幸であった」という思いではないでしょうか。
仏事の意義
自分中心でしか生きてない私が、お仏事の時は、如来様を主語として、先立たれた方を主語として語りあい、聞きあう中に、いま一度如来様、そして先立たれた方と「であっていく」場でありましょう。